Home / ミステリー / 水鏡の星詠 / 朝陽の中の誓い ⑤

Share

朝陽の中の誓い ⑤

last update Last Updated: 2025-03-28 07:24:41

 村人たちのざわめきがやがて風の音のように薄れ始め、やがて静けさが広場に満ちると、リノアはゆっくりと小さな布包みを取り出した。包みを解く手が微かに震えている。

 そこに現れたのは一粒の種子だ。それは森で見つけた不思議な種子とは異なり、淡く光るわけでもなければ、熱を帯びるわけでもない。

 祭壇に捧げるための素朴な種子だ。その素朴さが儀式の長い伝統と村の歴史を象徴している。

 リノアは種子をそっと摘んで、水が張られた青銅の器へと落とした。器の水面に静かな波紋が広がり、水が微かに揺れる。太陽の光がその波紋に反射し、祭壇の周りに小さな光の輪を作り出した。

 息を呑んで見守る村人たち。静けさが辺りを包み込んでいく。

 水面に浮かぶ種子を見つめながら、リノアはシオンの言葉を思い出した。

「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが、誤れば破壊を招く」

 この言葉が指す意味は何なのか。私たちはそれを知らなければならない。

 クラウディアが杖を地面に突き、低く厳かな声で祈りを始めた。

「自然よ、我々に恵みを。森よ、我々を守り給え。古の力よ、我々に力を」

 クラウディアの声が広場に響き渡り、村人たちが次々に手を合わせ、祈りの言葉を口にした。

 その場の空気は緊張と期待に満ち、何か大きな変化が訪れようとしている感覚を漂わせている。

 リノアとエレナも目を閉じて祈りを捧げた。二人の祈りの言葉が風に溶け、村人の祈りと重なり合う。

 私たちを良く思ってくれている人たちもいる。私は一人ではない。

 リノアは目を開け、祭壇の前で背筋を伸ばし、正面を見据えた。

 クラウディアが二人を見つめ、杖を地面に突いて言った。

「儀式を終えよう。リノア、エレナ。誓いの言葉を」

 リノアは深く息を吸い込み、エレナと呼吸を合わせ、一緒に言葉を紡いだ。

「我らは誓う。自然への敬意を忘れず、この村と森を守り抜くことを。先人たちの想いを受け継ぎ、未来に光を繋げます」

 その声が静けさに満ちた広場に響き渡る中、村人たちは一斉にこうべを垂れた。

 その仕草は儀式への敬意が感じられる。しかし、それは表向きの姿であり、本心は別にある。心の奥底に潜む疑念は、そう簡単には拭いきれるものではない。

 静寂の中、風がそっと吹き抜け、朝霧がゆっくりと薄れて行った。霧が広場を低く漂いながら動き、周囲の木々がその風に応じてかすかに揺れる。
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 水鏡の星詠   精霊の舞、継ぐ者たち ①

     太陽の光が村を柔らかく照らす中、広場には巨大な樹木が描かれた布が掲げられ、その周りには花や果実が積み上げられている。陽光は色彩豊かな花弁や果実の表面を照らし、まるで自然そのものが祝福を捧げているかのようだった。『精霊の祝祭』は一年に一度、村を挙げて行われる。過去を継承し、想いと共に未来を託す、大切な祭りだ。 祭りの音楽が始まると、風情あふれる旋律が空気を震わせた。哀愁漂う笛の音色や打楽器の軽快なリズム、清涼感のある木管の楽器が一つになり、村全体を包み込んでいく。 その音楽は村の伝統と未来への希望を内包したものだ。 笛の音が高らかに響き渡ると、村の伝統的な舞である『精霊の舞』が始まった。笛の音色に合わせて、村人たちが一斉に踊り出す。子どもから老人まで誰もが知るこの舞は自然への恩恵を表現し、世代を超えて受け継がれてきたものだ。 リノアは舞いを見つめながら、心の中でシオンと語りかけた。──シオンが守りたかったこの村の伝統、今年もこうして続いているよ。私も、できることをしていくから…… 村の男たちは、粗く織られた長めの上着と膝丈の刺繍が施された麻のズボンをまとい、力強く地に足を踏みしめて伝統の舞を披露している。踊りや歌を通して村の歴史を語り継ぎ、自然への敬意を示しているのだ。 赤や青の色鮮やかな帯が風景に溶け込み、印象深い存在感を放っている。 女性たちの衣装は男性と比べ、大胆さは影を薄めているが、反対に色彩と細部で際立っている。レースや刺繍が施された服は動きに合わせて軽やかに揺れ、花が咲いているかのように華やかだ。 手元にはフリンジや刺繍、巧みに編み込まれた髪には花やリボン、胸元には金や銀、ブロンズのネックレスが優雅に輝き、全身が優雅に彩られている。 衣装を太陽の光の下で輝かせることで、自然の恵みに感謝の心を表しているのだ。「リノア、シオンの代わりをよくやってるね」 クラウディアの温かな笑顔と落ち着いた声が、リノアの心に僅かながら安心を届ける。クラウディアはこの村の長老だ。「ありがとう、クラウディアさん。兄の代わりが果たせるのか少し不安だけどね」 リノアは正直に答えた。 クラウディアは他の村から嫁いできた。長い年月を掛けて村人たちからの信頼を勝ち取り、長老の座に就いている。 この村の人たちは個性豊かな面々が揃っており、長く生きて来たから

    Last Updated : 2025-04-01
  • 水鏡の星詠   精霊の舞、継ぐ者たち ②

     リノアとエレナの衣装の美しさは他の村人と比べて際立っている。ドレスは精霊の祝祭を象徴する金色と赤色で彩られ、裾には様々な精霊を模した刺繍が施されている。髪は金色のリボンで束ねられ、花冠のように小さな花々が飾られていた。 今日は彼女たちが祭りの象徴なのだ。 広場のあちこちにテーブルが並べられ、村の味を伝える料理が山盛りになっている。パンの香ばしい匂いや果実の甘い香りが漂う中、果実酒の瓶が次々と開けられ、グラスが楽しげに揺れる。村人たちは料理を囲みながら冗談を言い合い、そして大きな声で笑い、時には昔話に花を咲かせた。 その中を元気いっぱいに駆け回る子どもたち。一息つく間もなく食べ物を手に取って口に頬張っては、満面の笑みを浮かべている。はしゃぎすぎた子どもが転んでも、すぐに立ち上がって走り回るその姿は微笑ましくもある。 笛の音色や太鼓のリズムに合わせて村人たちが身体を動かす。踊るだけではなく歌い出す者も現れ、広場の熱気がさらに高まった。 夜空の下、揺れる灯りが照らし出すのは、満ち足りた笑顔と一体感に包まれた村の光景だった。 広場の片隅で、リノアは村人たちの動きをじっと見つめた。皆、笑顔を浮かべている。しかし、その表情にはどこか張り詰めたものがあると感じた。明るく振る舞ってはいるが、誰もが心のどこかでシオンの死を引きずっているのだ。悲しみを抱えながらも明るく振る舞うその姿は健気でありながらもどこか痛くもある。 これではシオンも心の底から喜ぶことはできないだろう。「シオンの奴、祭りに参加できなくて残念に思ってるだろうな。どうして突然、死んでしまったのかね」 年配の男性、マティアスが果実酒を飲みながら、近くの友人に言った。「本当にな。でも、あれほどまでに祭りを望んでいたんだ。シオンの分も楽しまなきゃ」 友人が答えた。 シオンの親友で村のパン屋を営むマルコは、祭りのテーブルに村一番のパンを並べていた。彼も笑顔で人々にパンを配りながらも、心のどこかでシオンの不在を感じているようだった。 若者たちのグループでは、アリシアが陽気に一人で踊っていた。アリシアは私の幼い頃からの親友だ。「アリシア、その踊り、素敵だね。シオンが見ていたら喜んでたと思うよ」 友人の一人が言った。「ありがとう。シオンがいなくなって寂しいけど、悲しむ姿を見せたくないの。前を向いて

    Last Updated : 2025-04-01
  • 水鏡の星詠   精霊の舞、継ぐ者たち ③

    「儀式は終わったけど、みんな落ち着かないね」 エレナがリノアの肩に触れて言った。「エレナ……。皆の気持ち、私にも分かる気がする。私も何だか元気になれなくて。皆に安心してもらう為には、私がもっとしっかりしてなきゃいけないのに」 リノアの声には、焦りの感情が滲んでいる。「リノア。まだ始まったばかりよ。リノアが前を向いているところを皆はちゃんと見ているから、村の皆も力を貸してくれるはずよ」 そう言ってエレナは優しく微笑んで、リノアの肩に触れた手に少し力を込めた。「ありがとう、エレナ」 リノアの笑顔を見て、エレナが頷いて応えた。 心の中には、まだ迷いが残っている。しかしエレナの言葉に少し救われた気がした。一人で背負い込む必要はない。 リノアは心を落ち着かせようと思い、大きく息を吸って視線を広場から夜空へと向けた。 瞬く星々の光がシオンとの思い出を呼び起こす。 シオンならきっと、こうやって村全体が一つになれる方法を模索したはずだ。リノアはシオンの背中を思い出しながら、夜空を見つめ続けた。──このままじゃ収拾がつかなくなる。私たちで何か始めないと。 視線を落とし、思いつめた顔をして地面を見つめていると、突然、大きな声が広場に響き渡った。「祈ったって何も変わらねえよ。川の水が減っていたのを見ただろ!」 声の主はヴィクターだ。彼の勢いある言葉に子供たちの足が止まり、母親たちは不安な顔で若者たちを見つめた。広場に緊張が走る。「シオンが死んでから何か様子が変なんだよ。おい。リノア、エレナ、お前ら何か知っているんじゃないのか」 ヴィクターの鋭い視線がリノアを捉える。その声には、不安、疑念、そして怒りが入り混じっている。 何か話さなければならない。そう思えば思うほど、言葉は喉の奥に引っ掛かって出てこない。ヴィクターの威圧的な態度に、リノアはその場に立ち尽くした。 シオンの死と森の異変が、ここまで皆を追い詰めているなんて……。 張り詰めた雰囲気の中、エレナが一歩前に出た。「落ち着いて。何ができるのか、私たちも考えているところなの」 エレナの穏やかで落ち着いた声が、緊迫した空気の流れを変えていく。 村人たちの視線がエレナに移る。 エレナに続いて、リノアも一歩前に出た。「私たち、森を守りたいと思ってる。だけど、まだ原因が分からないの」 リノア

    Last Updated : 2025-04-01
  • 水鏡の星詠   精霊の舞、継ぐ者たち ④

     村人たちとの遣り取りを遠くから眺めていたクラウディアがリノアとエレナの前に歩み寄り、若者たちに向けて口を開いた。「よしなさい。二人を責めて何の意味がある。儀式は終わったんだ。もう帰りなさい」 言葉は穏やかだが、その言葉には威厳が含まれている。反論できる者などいるはずはない。村人たちは一礼して、その場を去った。 広場に漂っていた重苦しい空気が徐々に解けていく。夜風が頬を撫で、静けさが戻った。「リノア、エレナ。みんな不安で仕方がないんだよ。許してやっておくれ」 クラウディアはリノアとエレナに向き直り、優しい笑みを浮かべた。 クラウディアの言葉にリノアは胸に抱えた緊張が少し和らぐのを感じた。「私たち、『龍の涙』の謎を探ろうと考えています」 リノアはクラウディアの目を真っ直ぐに見据えながら言葉を放った。 クラウディアの鋭い瞳がリノアを捉えた。その瞳には何かを測るような光が宿っている。短い沈黙の後、クラウディアは静かに口を開いた。「覚悟はあるのかい?『龍の涙』には、ただの力ではないものが宿るとされる。命を懸けることになるかもしれないよ」 リノアとエレナは互いに目を合わせ、力強く頷いた。「森が弱ってる。私、感じるの。何か悪いことが起きようとしてるって」 リノアの言葉を聞いたクラウディアは静かに目を閉じ、長く思案するように黙り込んだ。その後、彼女はゆっくりと目を開け、視線を祭壇へと移した。「森の異変には気づいている。ここ最近、長老たちの間でも議論が絶えなかった……。だが、お前たちがその謎に迫る意思があるならば、私は止めるつもりはない。ただし、その先にある真実が優しいものとは限らないことを決して忘れるんじゃないよ」 長老たち……。長老は各、村に一人しか存在しない。ということは他の村にも異変が起きているということだ。「クラウディアさん、何か知っているのですか? 昔の話でも良いから教えて頂けませんか」 リノアはクラウディアを真っすぐに見据えて言った。 クラウディアは一瞬、黙った後、低く落ち着いた声で語り始めた。「古い言い伝えにはこうある。『森が鳴く時、世界の均衡が揺らぐ』と」「森が……鳴く?」

    Last Updated : 2025-04-01
  • 水鏡の星詠   精霊の舞、継ぐ者たち ⑤

     リノアの眉がかすかに動く。クラウディアはゆっくりと頷いた。「ああ、だがその意味を完全に解き明かした者はいない。ただ、私が幼かった頃、一度だけ森が弱ったことがあった。その時、人々は村を護るため儀式を行い、結果的に森は持ち直した。しかし……今回の異変はあの時とは何かが違う。より深い、より根源的な力が関わっているような気がしてならない」 クラウディアの言葉は広場の静寂の中に染み渡り、リノアとエレナの背筋を冷たいものが這うように震わせた。「根源的な力?」 リノアの問いかけに、クラウディアの表情が一瞬だけ険しくなった。彼女は低く静かな声で応えた。「そうだ。生命力を凌駕した、もっと古く深い力……」 クラウディアの視線が遠くの森へと向けられる。その瞳には、一種の畏敬と懸念が混ざり合っていた。「森が泣く──その時、私たちは選ばなければならない。自然と調和する道を進むのか、それとも破壊の道を辿るのか」 クラウディアの言葉に込められた重みが、リノアとエレナの胸に深く響いた。「つまり、その『根源的な力』が異変の原因かもしれないということですか?」 エレナが小さく息をつき、慎重に口を開く。「恐らくな」 クラウディアは一瞬黙った後、ゆっくりと頷いた。「私たちはそれを見つけます。森の声を聞き、その答えを必ず探し出してみせます」 そう言って、リノアはエレナと目を合わせた。「シオンの死がその始まりなら、お前たちが見つけるしかない。シオンと関係の深い、お前たちなら、きっと遣り遂げることができるだろう。リノア、エレナ、私はお前たちの勇気を信じている」 クラウディアは微笑みながら二人の決意を受け止めるように言葉を返すと、静かにその場を後にした。クラウディアの背中が霧に溶け、広場の静寂と共に消えていく。 森の奥から風が吹き抜け、冷たい空気が二人の頬を撫でて行った。まるで森そのものがリノアとエレナの決意を確かめるように。「根源的なものって何だろう……」 リノアがふと呟いた。その言葉は空気に溶けるように静かだった。「森の奥に行ってみようか。シオンの研究所に行けば何か手がかりが見つかるかもしれない」 エレナは広場の端に目を移した。 今まで森の奥深くに足を踏み入れることは殆どなかった。森の植物は十分に育っており、森の奥まで入り込む必要はなかったからだ。森の奥に行く人と

    Last Updated : 2025-04-01
  • 水鏡の星詠   声なき森と父母の行方 ①

     リノアとエレナは広場を離れ、森の北の小径へと続く道を歩き始めた。まず向かう場所はシオンの研究所だ。 シオンは村にとって有用な研究を行っていた。村の歴史や伝統だけではなく、自然と科学を融合したものまで多岐に亘る。シオンは多才な人だった。 シオンが残した足跡は、この村だけでなく森そのものにも深く刻まれている。村に生息する動植物の生態系についての深い知識を持ち、その鋭い観察力と独自の視点から新たな発見を生み出していた。特に苔や菌糸に対するシオンの造詣は驚嘆すべきものがあった。 苔が水を蓄える仕組みや菌糸が森を豊かにする役割について、シオンが語る様子をリノアはよく思い出していた。シオンはただ知識をひけらかすのではなく、森や自然の美しさ、そして、それらがいかにして命を繋いでいるかを人々に教え、分かち合っていた。「森の声に耳を澄ませるんだ」 シオンは子どもたちや若者たちにそう言って微笑んでいた。その教えはリノアの心の中にも深く根付いている。そして今、シオンがいない村でシオンの言葉がどれほど重みを持つか、リノアは改めて感じていた。 リノアは霧の中を見つめ、胸に抱える思いを整理しようと試みた。 シオンが森の異変に気付いていたことは、シオンの記録や話の端々からも明らかだ。そのシオンが抱いていた憂いと覚悟……。 森が何かを伝えようとしている——その確信がシオンにはあった。しかしシオンが森の異変に対してどのようなアプローチを試みていたのか、その全容はまだ明らかにされていない。 現在、シオンの研究ノートに目を通したのはエレナだけだ。しかしエレナはまだそのノートについて詳しくリノアに語ったことはない。ノートに記された難解な数式や図形、断片的な文章——それらが森の異変とどう関係しているのか、エレナ自身も完全には把握しきれていないからではないかと思う。 リノア自身もシオンの研究ノートに記された内容について、特に関心を示すことはなかった。森は特別な領域であり、リノアにはそれがどこか神聖なもののように感じられていたからだ。 シオンの声がもう聞けないという現実の中、彼が愛し、守り続けた森がリノアにとって次第に特別な意味を持つようになった。静寂に包まれた森の存在は、シオンの思いを受け継ぐべき場所としてリノアの胸に深く刻まれていく。 シオンの研究は一体、どこまで進んでいたのだろう

    Last Updated : 2025-04-02
  • 水鏡の星詠   声なき森と父母の行方 ②

     朝霧が地面を覆い、足元の苔が湿って柔らかい感触を返す。靴が石を踏むたびに、かすかな水音が響き、霧が膝下を這うように漂った。道の両側には畑が広がり、その向こうに森の輪郭が霧にぼやけている。 風が冷たく吹き抜ける中、リノアはシオンの形見である木彫りの笛を手に持ち、指先に力を込めた。笛の表面に刻まれた細かな模様がリノアの肌に冷たく食い込む。 あの時の村の若者たちの悲痛な声。それがリノアの耳に残響のように残っている。確かに森が弱ってしまったら、私たちは、もうこの地で生きて行くことはできないだろう。「クラウディアさん、本当は何か知っているんじゃないかな……」 リノアの息が白く霧に溶け、木々の間に漂う。 リノアの脳裏に浮かぶのは、クラウディアが去っていく姿だった。杖の先端が地面に触れる音が辺りに響き、霧の中へ消えていく後ろ姿。鋭い瞳には、どこか深い思案の影が宿っていた。それが妙に心に引っかかる。「あの言い伝えにある『災い』というのが気になるよね」 エレナが薬草の袋を肩にかけ直し、霧の中を見据えて言った。霧が森の奥へと広がっている。その深みへ吸い込まれるようにエレナの視線が固定された。 エレナは腰に弓を携え、背中には矢筒をしっかりと括り付けている。エレナの弓術は村でも一目置かれており、危険な状況や狩りの場で何度もその腕前を証明してきた。それはエレナの自信と冷静さを支える柱でもあった。 エレナは肩の薬草袋を背中に押し上げると、霧の向こうに向かって歩を進めた。エレナも森の奥に潜む何かへの警戒心が徐々に膨らんでいるようだ。 災いか……。 リノアはその言葉を聞いて胸の奥がざわめくのを感じた。 もし災いが起きたというのなら、シオンがその犠牲者だということなのだろうか? そんなはずはない。シオンは森を愛し、守り続けてきた存在だ。シオンが自然の怒りを買うはずがない。 霧に包まれた小道の両側にはぽつりぽつりと家が建っている。その静かな佇まいは日々の営みの平穏さを物語ったものだ。 この付近の人たちが騒いでいるところを見たことはない。ということは、問題が起きている場所は森の奥深くというのは合っている。まだ危機は村には迫ってはいない。「問題が起きているのは森の奥深い場所。まだ村そのものに危機が迫っているわけではないみたい。だけど時間は限られているんじゃないかな」 リノ

    Last Updated : 2025-04-02
  • 水鏡の星詠   声なき森と父母の行方 ③

     この村にはかつて誇り高い戦士たちがいた。しかし幼い頃に起きた戦乱で彼らは敗北を喫し、村の運命は大きく揺らいだ。 戦士たちの多くは村を離れ、村を降りて傭兵として働く者がいた一方で、一部は森の奥深くで静かな隠居生活を送ったと聞かされている。村を去った者たちの痕跡は殆どない。 その戦乱のさなか——リノアの父と母も姿を消した。 生死も行方も分からず、ただ「帰ってこなかった」という冷たい現実だけが残されている。幼かったリノアにとって、それは喪失以上の意味を持っていた。その体験はリノアの心の奥に消えることのない傷跡を残したが、それと同時にリノア自身を強くした。 時が経つにつれ、徐々に村ではリノアの両親について語る者が減っていった。戦士たちと共に消えた者たち……。それが今の村人たちの両親の記憶だった。 戦士たちがいた頃の誇り高い時代は、霧の向こうへ消えた過去のものだ。現在、村人たちは自分たちの手で日々の平穏を守り、ひっそりと暮らしている。 リノアは歩みを止め、霧の向こうに視線を向けた。見えない何かを探すように、その瞳は遠くを見据える。何も見えない霧の奥に答えのない過去が眠っているように感じられた。 だが、今のリノアはそれをただ受け止めるだけの少女ではない。 両親が愛した森、その森の沈黙が持つ意味を解き明かすこと——それこそがリノアが歩む理由であり、今の使命だ。 村を守る戦士たちを失って以降、森を取り巻く神秘的な要素も徐々に失われていった。かつては畏敬と共に語られていた森の存在は、日常の中で静かに埋もれて行くことになる。 リノアはその歴史を思い返しながら、頼りなく揺れている自分たちの影を見つめた。その影は村が誇り高い戦士たちに守られていた時代の堂々たる姿とは似ても似つかない。まるで儚い夢のように映っている。 その影は、まるでこの土地に刻まれた記憶の中で消えかけているようだった。霧の中に溶けていく足跡は、過去へと沈んでいくような感覚を伴う。 かつてこの村を守る盾となった者たちが消え去った今——村を守るのは私たちしかいない。息が白く霧の中に溶ける度に、森の奥で待ち受ける未知の運命へと立ち向かう覚悟が芽生えていく。 森が失ったその「神秘」を取り戻すため、そして真実を解き明かすためにも、この先の一歩一歩が重要なものになる。

    Last Updated : 2025-04-03

Latest chapter

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ⑧

     幸い、この丘から神殿までは距離がある。今なら逃げ切れる。もうこれ以上近づかない方が良い。 リノアの理性が、そう呟く。しかし胸の内では異なる想いが湧き起っていた。──行かなければならない。 リノアの本能が呟いた。 シオンの秘密は神殿の中に眠っている。そして、あの人影がその鍵を握っている可能性が高いのだ。 理性がどれだけ警鐘を鳴らしても、その声は消えない。 胸の奥で熱が燃え上がる。──待っていて、シオン。 相手はマントを身にまとい、走ることを想定した服装ではない。武器も携帯していないのではないか。 おそらく彼らは戦士ではない。 仮に争うことになっても何とかなる。エレナと二人なら── 冷たい夜風が頬を撫でる中、リノアの視線は神殿へと向けられている。身を乗り出そうとしたその時、エレナがリノアの動きを制した。「リノア、落ち着いて。今はその時じゃない」 理性と本能がせめぎ合う中、冷たい夜風が二人の間を吹き抜け、リノアは冷静さを取り戻した。「分かってる……」 リノアが呟いた。 今、行けば相手に気づかれる可能性が高い。この静寂の中、足音を立てずに移動するのは無理だ。 彼らが戦士ではないとしても、こちらが優位に立てる保証はどこにもない。外部の者なら未知なる能力や技術を持っている可能性がある。 素性も謎に包まれており、目的も不透明だ。シオンを殺めた者たちであるかどうかすら、まだ分からないのだ。 それに私の勝手な行動でエレナを巻き込んでしまうことだけは絶対に避けなければならない。 冷たい夜風が頬を撫でる中、リノアは拳を握りしめた。──今の私には戦う力も救う力も何もない…… リノアは影を見据えたまま、胸の奥で湧き上がる感情を抑え込んだ。握りしめた拳が、わずかに震える。 いずれシオンの敵を討つ時は必ず訪れる── 陽が沈み、闇が深くなるにつれ、周囲に漂う不穏な気配が濃くなっていく。 その時——人影が視界に入った。 黒いシルエットがゆっくりと動きながら、草木の間を慎重に進んでいく。「何かを探しているみたい」 エレナが呟いた。 リノアたちが隠れている茂みのすぐ近くまで影が迫っている。 リノアが目を凝らして、その動きを見つめていると、ふいに人影は足を止め、周囲を見渡し始めた。しかし、その目はこちらに向けられることはない。こちらの存在に気

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ⑦

     リノアはエレナが指し示した方角を見据えた。 神殿の周囲を徘徊するかのように揺れる影。それが人の形をしていることに気づいた時、二人の中に緊張が走った。「誰だろう……?」 リノアが囁くように言った。 シオンが研究所に残していたペンダントや鉱石類……──シオンは、あの場所に訪れていたのではないか。もし、あの品々が神殿で見つけたものだったとしたら……すべてが繋がる。 シオンが何を調べていたのか、ようやく輪郭を帯び始めてきた。「研究所からそう遠くない場所なのに、シオンは焚き火をしてまで夜を過ごしていた。やはり、あれは動植物の観察のためだけだったわけではないようね」 そう言って、エレナは思案するように神殿を見つめた。 帰るべきか、それとも未知の領域へと足を踏み入れるべきか——迫りくる夜の静寂の中、森に漂う不穏な気配が二人の決断を曇らせる。 迷いが生じるその刹那、人影はふっと薄闇へ溶け込むように消えていった。 二人は丘の縁に立ち、神殿の方向を見つめた。月光が神殿の尖塔を照らし、まるでそこだけが別の世界に属しているかのように見える。 シオンは好奇心に駆られ、神殿に何かを探しに行ったのではないか? そして、ここで何かを知ってしまった……。 未知への期待と謎が解けるかもしれないという予感が、リノアの胸にふつふつと湧き上がってくる。 リノアは神殿の輪郭をゆっくりと追った。月光を浴びた古びた石造りの壁が、まるで時間の流れから切り離されたかのように佇んでいる。「エレナ、また……」 人影が再び姿を現した。 この辺りの村の者ではない。装いも佇まいも、どこか異質な雰囲気をまとっている。「どこの人たちなんだろうね」 エレナが息を潜めて言った。 人影はゆっくりと神殿の中央へと進み、柱の陰に差し掛かった時、ふと動きを止めて、振り返った。──他にも誰かいる。 顔は闇に溶けてはっきりとは見えない。しかし、そのわずかな仕草から、ただ佇んでいるだけではない事だけは確かだ。 柱の陰に消えた人影が、今度は神殿の別の壁際から現れた。まるで、リノアとエレナの様子を探るかのような慎重な動きを見せながら……。「近づいてる!」 沈黙を破ったエレナの声が一瞬にして空気を張り詰めた。 エレナの指が矢筒へと伸び、確かな動作で矢を引き抜く。迷いはない。鋭い視線で人影の動きを追い

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ⑥

     森を包む光は柔らかくなり、空には橙色の残響が漂っていた。昼と夜の境界がゆっくりと溶け合う頃、リノアとエレナは星見の丘へと歩みを進めた。 陽が完全に沈むまで、あまり時間はない。西の空はゆっくりと深い青へと変わりつつある。 木々の間を抜ける風が優しく肌を撫でる。だが、その静けさの中で、ふと違和感が生じた。──風の音ではない。枯れ葉を踏みしめる足音が聞こえる。 リノアは立ち止まって、視線を音が聞こえた方へ向けた。エレナも気配を察知したのか、手をゆっくりと弓の近くへ持っていく。「エレナ、今の音……聞こえた?」「うん、私も聞こえた。近くに誰かいるのかも」 エレナの鋭い瞳が森の奥を探る。 リノアは息を呑みながら木の影へと身を潜めた。敵かもしれない——もし見つかれば、二人だけで対応するのは難しい。「あっ」 リノアの足が一本の根に引っかかり、思わず躓きそうになった。その瞬間、エレナが素早くリノアの腕を掴んだ。力強くも優しいその手がリノアの腕を強く握り閉める。「リノア、落ち着いて。大丈夫だから」 エレナは微笑みながら言った。その穏やかな声と温もりが、リノアの焦る心を静めていく。 二人の発した音に驚いたのか、枯れ葉の隙間から何かが顔を覗かせた。「なあんだ、シカか」 リノアが驚きつつも安心した様子で呟いた。 音が聞こえた方角と一致している。あの音の正体は、このシカで間違いないだろう。「危険を冒してまで、こんなところに……」 エレナが慈しみの目を向けた。 そう言われてみれば、最近、シカの姿をよく見かけるようになった。村の近くにまで来なければ食料に在りつけなくなったのだろう。村の周辺で草木が減った原因の一つだ。 落ち着きを取り戻したリノアとエレナは、シカの姿に一瞬の安堵を覚えながらも、胸に残るざわめきを振り払うように歩みを再開した。 星見の丘への道は木々の間を縫う細い小径の先にある。 風が葉を揺らし、さらさらとした音が二人の足音に混じり合う。その穏やかな空気とは裏腹に、リノアの心は落ち着かないままだった。 シオンの焚き火の跡、そして不自然な引きずった跡——それらの記憶が頭を離れない。 シオンは森の異変を追ううちに、思いもよらない危険な存在に近づいてしまったのではないか?  丘へと続く最後の坂を上る頃、空はすでに深い青へと変わり始めていた。

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ⑤

     リノアの視線が焚き火の跡から外れ、周りの地面に向けられた。「エレナ、これ……なんだろう」 リノアの声に反応したエレナが地面を凝視する。 不自然な線が土に残されている。誰かが重いものを引きずったような跡だ。——だが、シオンは決してこのような乱暴な動きをする人ではなかった。「シオンのやり方にしては……」 リノアはそう呟きながら、胸の鼓動が速まるのを感じた。誰かがここに来たのかもしれない。 シオンの研究所からそう遠くないこの場所で、シオンが焚き火を灯し、夜を過ごした理由。それは単に動植物を観察するためだったのだろうか? シオンの心は常に自然と共にあり、森の一部かのように振る舞っていた。だが、この引きずった跡は、シオンの性格を考えると説明がつかない不自然さがある。 エレナがしゃがみ込んだまま、引きずった跡に指を這わせた。その途中で微かな色の違いに気付いたエレナが息を呑んだ。「リノア……これ、血の跡かもしれない」 リノアも膝をつき、地面をじっと見つめた。 赤黒く乾いた血の痕が不規則に途切れながら続いている。動物のものだろうか。傷ついた獣を誰かが運んだ……その可能性も考えられる。 リノアは痕跡を追うように視線を動かすと、近くの草むらに何かが引っかかっているのを見つけた。「エレナ、これ……動物の毛じゃない?」 リノアは慎重に手を伸ばして、草むらからその毛を摘み取った。柔らかいが、どこか荒々しい感触が指先に伝わる。 エレナがリノアの手元を覗き込み、毛をじっと見つめた。エレナの眉がわずかに動き、その表情に確信の色が浮かぶ。「これは……ラヴィアルの毛だね」 エレナの声はどこか緊張感を帯びている。その言葉にリノアは目を見開いた。「ラヴィアル?」 リノアが問いかけると、エレナは頷きながら、毛を指先で撫でるように確認した。「ラヴィアルはこの森のもっと奥深くに住んでいる獣よ。鋭い角を持っていて、夜行性。通常は人前に現れないけど、傷を負ったり、追い詰められたりした時にはその足跡を残すことがある。確か他の村で大切に扱われていた動物だったはず。リヴェシアだったかな」 エレナはラヴィアルの毛を守るように両手で包み込むように持ち、慎重に小さな布袋に入れた後、周囲を見渡した。その動作には弓使いとして培った鋭敏な洞察力が感じられる。 森の静けさの中で、二人の間に

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ④

     リノアとエレナはシオンの研究所の扉を押し開け、北の小径の奥へ向けて足を踏み入れた。 陽は西へ傾き始め、森の中に柔らかな夕暮れの気配が漂い始めている。リノアとエレナは、ゆっくりと伸びていく木々の影を感じながら歩を進めていた。 時間に追われるわけではない。しかし、この言いようのない気持ちは一体何だろう。穏やかな情景とは裏腹に、森に立ち込める空気には言いようのない不穏な気配が漂っている。 リノアは腰の革帯に差し込んだシオンの笛を無意識に握り締めた。「この笛は僕、そのものだ。リノア、一つあげるよ」とにっこり笑ったシオンの笑顔が忘れられない。その時以来、シオンの笛は私の大切な宝物であり、心の支えとなっている。 シオンが笛を吹けば、その透き通った音色に誘われるように小鳥たちが集まった。シオンの心はいつも自然と共鳴し、まるで森の一部のように溶け込んでいた。 シオンは実の兄として、リノアに優しさと安心を与えてくれた、かけがえのない人だった。そのシオンの死はリノアの心に癒えない傷を刻んだ。 シオンは森の奥で何を見つけたのか? どうして命を落とさなければならなかったのか? その答えがすぐに見つかるわけではない。 それでもリノアの胸にはシオンの秘密を解き明かしたいという熱い想いが渦巻いていた。 隣を歩くエレナが年上らしい落ち着きと、凛とした瞳で前を見据えている。だが、その凛とした表情の奥には、シオンの死に対する深い悲しみが隠れていることをリノアは感じ取っていた。 エレナとシオンは恋人同士だった。二人が寄り添い、言葉を交わす姿は自然で、お互いの存在が当たり前のように感じられた。だけど、シオンはもういない。喪失の痛みを押し隠すように、エレナは前だけを見つめて歩いているのだ。 木々が迫る小径を抜けた時、リノアの足がぴたりと止まった。 地面に焦げた土の跡が点在し、黒ずんだ石が辺りに散乱している。冷たく湿った感触が手に伝わり、鼻をつく焦げた臭いが森の清涼な空気と混じる。 それは、ここで確かに炎が揺らめいていた証だった。 リノアは膝をつき、石を一つ拾った。「これ、シオンの焚き火の跡だ」 リノアは石の表面を撫でて、ざらついた焦げ跡を確かめて言った。 以前、森で見たものと造りが同じだ。他の村人たちは食料を調達しに来るか、単に通り過ぎるだけ。この場所で火を焚いて、夜を過

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ③

     箱の中には薬草の束が整然と収められている。その薬草は不思議と枯れることなく、時の流れに逆らうように鮮やかな色合いを保ち、まるで何かを守るように静かに横たわっている。 その中心で銀色に輝くペンダント── リノアは淡く輝くその光に目を奪われながら、ペンダントを手に取った。指先が触れた瞬間、リノアは胸の奥深くで何かが高鳴るのを感じた。その感覚が波紋のように全身に広がって行く。 突然、リノアの視界が揺らぎ、目の前に幻想的な光景が広がった。見たこともない光景だ。 漆黒の夜空に無数の星が煌めき、静かに瞬いている。その光を浴びるように広がる広大な森。それらの木々を風が一本一本、優しく撫でている。 森の奥深くには神殿がひっそりと佇み、石壁に紋様が刻まれていた。 その神殿の入口に、小さな影。 可愛らしい目をしたリスがこちらを眺めている。長い時を超えて語りかけるような視線……。 リスは神殿の前で動かず、小さな二本足で立ち、尾をゆったりと揺らしている。やがて星の輝きと共鳴するかのように淡く光り始めたかと思うと、その光は星々に呼びかけるように広がって、そして消えていった。 その場で立ち尽くすリノア。「リノア、どうしたの?」 エレナの声が静寂を破った。 リノアは瞬きをし、視界にぼんやりと映し出される光景を見て我に返った。「今……何かが見えたの。神殿と星空……そして、リス。リスが私を見つめていた」 現実とは思えないほど鮮やかな光景だった。 一体、何だったのだろうか。 現実の光景だったのか、それとも心の中に浮かび上がった幻だったのか——リノアには分からない。 ただ、その瞬間、胸の奥に何かが目覚めるような感覚があったのだけは確かだ。「リノア、大丈夫?」 エレナが心配そうな顔をして、こちらを見つめている。 リノアははっとして顔を上げたが、その瞳はまだどこか遠くを見つめているようだった。「シオンが、私に何か伝えようとしているのかもしれない」 リノアは自分でもその言葉の意味を完全には理解できていなかった。ただ、目の前に広がった光景が持つ重みを感じていた。「リノア、その光景に見覚えはあるの?」 エレナの問いかけに、リノアは小さく首を振った。「ううん。私、神殿なんて一度も見たことがないし」「神殿か……。何でそんなものを見たんだろうね。確か、山の奥に今は使

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ②

     ここでシオンは研究に没頭し、時には夜を越してまで続けていた。思い浮かぶのは、彼が満ち足りた笑顔で机に向かっていた姿。部屋のどこを見ても、シオンの存在がいまだにこの場所を支配しているように感じられる。 中に足を踏み入れると、冷たい冬の空気が二人を鋭く包み込んだ。吐息がわずかに白く曇り、室内は静けさとともにひんやりとした湿気を漂わせている。土壁は冷え切り、かすかな霜がその表面にしみ込むように薄く光っていた。 かつてシオンが過ごした時間の痕跡が室内の隅々に残されている。 埃の積もった木肌の上に、くっきりと浮かび上がる笛の跡。その姿は、まるで時間の狭間に取り残された思い出の影のようだった。「シオンの物、そのまま残してるんだね……」 リノアの囁くような声が、埃っぽい空気の中に溶け込む。 私たちにとって、ここにある全てのものが形見だ。たとえ時が流れても触れた瞬間に過去が蘇る。その儚さが、かえって手を伸ばすことをためらわせるのだ。「手を付けてはいけない気がしてね……。何だか思い出が壊れそうな気がするから」 そう言って、エレナは目を伏せた。 その表情には、どこか切なさと迷いが見て取れる。 リノアはエレナの言葉にじっと耳を傾けた。触れれば壊れてしまいそうな繊細な記憶。その言葉には過去を大切にしたいという想いが含まれている。 リノアはゆっくりと息を吐きながら、視線を落とした。 この部屋に満ちる静けさが、エレナの気持ちと重なり合うように感じられる。 沈黙が流れる中、やがてリノアは目線をさまよわせ、ふと隅に積まれた木箱へと目を留めた。「……あれって何だろう?」 リノアが不思議そうな顔で呟いた。木箱の表面には、リノアが持っている笛と同じ文様が刻まれている。「開けてみたら?」 エレナが言った。「でも……」 エレナの言葉にリノアが戸惑いを見せた。「いいのよ、リノア」 リノアの視線を受け止めるように、エレナはそっと微笑んで言った。 その笑顔には、これまで閉じ込めていた想いが解き放たれたような温かさがある。「ここに来るまで、私はシオンの死に向き合うことを避けていた。でも、このままずっと触れないでいたら、思い出は遠ざかっていくばかり。シオンはそんなことを望んでいないと思うし……ね」 そう言って、エレナは懐かしむように木箱へ視線を落とした。「ほら、リノ

  • 水鏡の星詠   忘れられた研究所の秘密 ①

     老婆の言葉と傍らに立っていた女性戦士の姿が、リノアの胸に奇妙な違和感を残していた。 二人の目的を探る術もなく、ただ村に向かう二人の背中を思い返すばかりだった。リノアとエレナは、お互いに視線を交わしながら森へと足を進めた。 森は秘密を抱えた古老のように沈黙し、静寂は耳を塞ぐほど深い。リノアとエレナの足音だけが森に響き渡る。「エレナ、鳥がいない……」 リノアの声にはかすかな動揺が滲んでいる。「風も吹いてないね」 エレナは辺りを見渡しながら、弓に自然と手を掛ける。 リノアはエレナの陰で森に意識を向け、空気の流れを感じ取ろうとした。 以前の森は木々の隙間を抜ける風が星の歌を運び、その音色が森全体を輝かせていた。それに比べ、今の森は風のない世界のように淀み、輝きを失っている。 異様な沈黙——まるで生命の躍動を感じない。 リノアはこの現象の異質さを受け止めて、冷静に考えを巡らせた。 リノアの視線が森の奥へ進むほど、不穏な空気がじわりとその影を濃くしていく。まるで森全体が息を潜め、その謎めいた真実を語り出す時を待っているかのように。「クラウディアさんの『森が鳴く』って、何だろうね」 リノアの胸に不安がじわりと広がる。クラウディアの言葉は不気味な予感を残していた。「森が鳴く時、世界の均衡が揺らぐ」 エレナが思い出すように呟き、そして続けた。「変化なんて恐れる必要はないと思うよ。存在している以上、全てのものは絶えず変化をしているものだからね。大切なことは均衡を崩さないことなのだと思う」 森が静寂を破る時、そこには必ず理由がある。 木々のざわめき、風の震え、大地に響く低い唸り──それらは、かすかな予兆として現れ、やがて大きな波へと変わっていく。 それは自然が告げる変化の前触れであり、見えざる力が動き始めた証でもある。いつもと異なることが起きた時は細心の注意を払わなければならない。 その変化がまさに今、目の前で起きている。「エレナ、早く行こう。シオンの研究所へ行けば、何か分かるかもしれない」 シオンの研究所は北の小径の入り口近くにある。 二人は北の小径を急いだ。 リノアとエレナは小道の脇に倒れた木の手前で足を止めた。幹や枝が乾いてひび割れ、砕けた鏡のように散乱している。「つい最近まで立っていた木が……」 エレナが困惑した表情で呟いた。

  • 水鏡の星詠   名家の宿命 ⑮

     敗戦後、村の中で囁かれ始めたのは、イリアとカムランに対する「裏切り」の疑念......。「二人は自分たちだけが助かる為に、国の使者と取引をしたのではないか?」 確かな証拠もないまま疑念だけが大きくなり、その噂は瞬く間に広がった。語られるうち、その噂は『裏切り』として既成事実化され、村人たちの心に定着するようになる。 誰もが、そう信じたかったのだろう。やり場のない怒りをぶつける相手として、イリアとカムランは都合が良かったのだ。 だが、私は知っている。 イリアとカムランは最後まで村を守るために戦っていた。二人は裏切ってなどいないことを──。 それにしても、二人は私にリノアとシオンを託した後、どこに消えてしまったのか。人知れず、どこかで戦死してしまったのだろうか。それとも村人の誰かに殺されでも……。 私以外の国の者が村人に調略を持ちかけていたとしてもおかしくはない。扇動された村人が二人を殺害、若しくは捉えて国に差し出した可能性はないだろうか……。 記憶の断片が胸に冷たく突き刺さり、クラウディアの視線がランタンの揺れる光に落ちた。 現時点で考えたところで答えに行き着くことはないか……。情報量があまりにも少なすぎる。 思考の迷路をさまようばかりで、確かな答えはどこにも見つからない。薄暗い部屋の静けさが、焦燥感をより際立たせる。 クラウディアは溜息を漏らした。その時、窓の外で微かな足音が響く。 夜の闇に紛れるような控えめな音が次第に近づき、それに伴って枝が折れる音が鋭く響き渡る。小動物ではない。 クラウディアの背筋に冷たい感覚が走った。 ランタンの光を落とし、窓に近づく。窓を覆う霧が水滴となり、ガラス面を伝い落ちていく。「そこにいるのは誰だ……?」 暗闇の中で何かが動いている。──国、あるいは村の密偵か? 暗闇の中の者に問いかけるが、応答がない。 沈黙が支配する中、突風が吹き、森のざわめきが一層、強まった。その音はクラウディアの心を試し、揺さぶるかのように響いている。 クラウディアの心に不安感が広がっていく。──暗闇に潜む何かが私を見つめている気がする。 クラウディアは窓際からゆっくりと離れ、息を整えた。 ランタンの灯りがわずかに揺れ、淡い光が森をぼんやりと浮かび上がらせている。──本当は、そこには何もないのではないか。私が作

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status